先行者 ②後編 絵:mw_me 文:イワナ 「ずっと待っていました」そう告げて、振り返った彼の顔は‥ほぼ毎日必ず見ているソレだった。 今、俺の目の前にあるもの。それは、俺自身の顔に他ならなかった。他人の空似などと言うレベルじゃない。自分そのものが形になった何か‥戦慄が走った。恐怖で立ちすくんだ俺の肩をポンと叩いて、彼は言う。「この渓谷で、隆史くんを二十年以上も待ってたんだ‥やっと会えて、本当に嬉しいよ。」言葉が出ない俺に、彼はさらに語り続ける。「この渓谷はイワナの宝庫さ。釣っても釣っても居なくならないんだ。ここから先は、僕と交替だ。僕は戻るから、君は好きなだけ釣るといい。」そこまで言うと、彼は下流に向かって歩き出した。俺は呆然と立ち尽くし、彼の後ろ姿を見送るしかなかった。ふと気付くと足元に、彼のバンタムとロッドが残されていた。思い出した‥ このバンタムとロッドは、俺が中学生の頃に使っていたものだ。何処に仕舞ったのか、探しても探しても見つからなかったバンタム100だ‥リールを手に取り、確認した。リールシートの裏にT.Kのイニシャルが彫られていた。間違いない。午後4時。自宅マンションにて。片桐隆史の妻、涼子は後悔の念に駆られながら、夕食の準備をしていた。 昼過ぎからコトコト煮込んできた、隆史が大好きなビーフシチュー。 焦げないよう、弱火でゆっくり鍋をかき回しながら、呟く。「私、なんであんなに怒ってしまったのだろう‥」事の発端は、些細な行き違い。夫婦では良くある話しなのに‥怒ったまま、「行ってらっしゃい」の一言も無く、彼を送り出してしまった。きっと隆史は、楽しみにしていた釣りを一日中、嫌な気分で過ごしたのではないか‥そう思うと、胸の奥が痛んだ。帰って来たら笑顔で迎えて、一緒にビーフシチューを食べよう‥そう思った時、玄関のチャイムが鳴った。玄関を開けると、隆史が立っていた。 「お帰りなさい。今日は隆史の大好きなビーフシチューだよ‥」そこまで言って、違和感に気付いた。朝、出かけた時と服装が違う。釣り道具も持っていない。車に置いて来たのだろうか。 違和感を感じつつも、その笑顔は確かに隆史そのものだった。「なあに?川にでも落ちたの‥?」 「まあ、そんなとこかな」 「‥それじゃ、冷えたでしょう。早くお風呂に入ってらっしゃい」玄関に入ると、「隆史」は背後で「カチリ」とドアノブの鍵を掛けた。 家の中はビーフシチューの香りで満たされていた。隆史は、あれからずっと長い月日を、渓谷で彷徨っている。涼子と喧嘩をした、あの懐かしい朝を思い出しながら。 喧嘩したまま、あれが最後の別れなんて嫌だ‥早く家に帰って、涼子に会わなければ。だが、どんなに歩いて渓谷を下っても、入渓地点に戻ることは出来なかった。 V字の切り立った両岸は一向に終わらず、下っているうちに、必ず元の場所に戻ってしまうのだ。 スマホはずっと圏外のまま‥衛星通信機能も繫がらず、GPSも現在地を表示しない。ここは、永久に脱出不可能な渓谷‥「彼は二十年以上も俺を待っていた‥」 その意味に気付いた隆史は、途方に暮れ、川岸に座り込んだ。 変わることなく、連綿と流れ続ける渓。 初夏の夕暮れが渓谷を染め、ヒグラシが鳴き始める。 何処から漂って来たのか‥一瞬、涼子の作るビーフシチューの匂いがした。終わり
先行者 ②後編 絵:mw_me 文:イワナ 「ずっと待っていました」そう告げて、振り返った彼の顔は‥ほぼ毎日必ず見ているソレだった。 今、俺の目の前にあるもの。それは、俺自身の顔に他ならなかった。他人の空似などと言うレベルじゃない。自分そのものが形になった何か‥戦慄が走った。恐怖で立ちすくんだ俺の肩をポンと叩いて、彼は言う。「この渓谷で、隆史くんを二十年以上も待ってたんだ‥やっと会えて、本当に嬉しいよ。」言葉が出ない俺に、彼はさらに語り続ける。「この渓谷はイワナの宝庫さ。釣っても釣っても居なくならないんだ。ここから先は、僕と交替だ。僕は戻るから、君は好きなだけ釣るといい。」そこまで言うと、彼は下流に向かって歩き出した。俺は呆然と立ち尽くし、彼の後ろ姿を見送るしかなかった。ふと気付くと足元に、彼のバンタムとロッドが残されていた。思い出した‥ このバンタムとロッドは、俺が中学生の頃に使っていたものだ。何処に仕舞ったのか、探しても探しても見つからなかったバンタム100だ‥リールを手に取り、確認した。リールシートの裏にT.Kのイニシャルが彫られていた。間違いない。午後4時。自宅マンションにて。片桐隆史の妻、涼子は後悔の念に駆られながら、夕食の準備をしていた。 昼過ぎからコトコト煮込んできた、隆史が大好きなビーフシチュー。 焦げないよう、弱火でゆっくり鍋をかき回しながら、呟く。「私、なんであんなに怒ってしまったのだろう‥」事の発端は、些細な行き違い。夫婦では良くある話しなのに‥怒ったまま、「行ってらっしゃい」の一言も無く、彼を送り出してしまった。きっと隆史は、楽しみにしていた釣りを一日中、嫌な気分で過ごしたのではないか‥そう思うと、胸の奥が痛んだ。帰って来たら笑顔で迎えて、一緒にビーフシチューを食べよう‥そう思った時、玄関のチャイムが鳴った。玄関を開けると、隆史が立っていた。 「お帰りなさい。今日は隆史の大好きなビーフシチューだよ‥」そこまで言って、違和感に気付いた。朝、出かけた時と服装が違う。釣り道具も持っていない。車に置いて来たのだろうか。 違和感を感じつつも、その笑顔は確かに隆史そのものだった。「なあに?川にでも落ちたの‥?」 「まあ、そんなとこかな」 「‥それじゃ、冷えたでしょう。早くお風呂に入ってらっしゃい」玄関に入ると、「隆史」は背後で「カチリ」とドアノブの鍵を掛けた。 家の中はビーフシチューの香りで満たされていた。隆史は、あれからずっと長い月日を、渓谷で彷徨っている。涼子と喧嘩をした、あの懐かしい朝を思い出しながら。 喧嘩したまま、あれが最後の別れなんて嫌だ‥早く家に帰って、涼子に会わなければ。だが、どんなに歩いて渓谷を下っても、入渓地点に戻ることは出来なかった。 V字の切り立った両岸は一向に終わらず、下っているうちに、必ず元の場所に戻ってしまうのだ。 スマホはずっと圏外のまま‥衛星通信機能も繫がらず、GPSも現在地を表示しない。ここは、永久に脱出不可能な渓谷‥「彼は二十年以上も俺を待っていた‥」 その意味に気付いた隆史は、途方に暮れ、川岸に座り込んだ。 変わることなく、連綿と流れ続ける渓。 初夏の夕暮れが渓谷を染め、ヒグラシが鳴き始める。 何処から漂って来たのか‥一瞬、涼子の作るビーフシチューの匂いがした。終わり
11
15
イワナ
|
1日前
|
ミニ企画