先行者 ①前編 絵:mw_me 文:イワナ上流の大きな岩の上に人影が見えた。 先行者だ‥初めて来た川。朝靄の立ち込める渓谷で、前方に見えるシルエットが何者なのか‥渓流釣りをする者にとって、その答えは明らかだった。彼は間違いなくイワナ釣りの先行者だ。こと渓流釣りにおいて、先行者が居るという事は、その日の釣果を諦めるのと同義だ。狭い流れと数少ないポイントは、確実に先行者に探られ、釣られ、後を追う者は壊滅的に釣れなくなる。そして、先行者を追い抜いてはいけないという、渓流釣りならではの不文律、暗黙のルールがある。それゆえに、人影を確認して一気に落胆したのだが‥おかしな事に、ここまでの釣果はそれなりに上がっていた。入渓して1時間で5匹。ここぞというポイントでは、必ずイワナがルアーを追って来て、ヒットする。釣り人なら絶対見逃さない好ポイントのはずなのに。有り得ない事だった。経験したことの無い違和感。だが‥不思議に感じつつも、釣れているうちは、彼の跡を追って釣り上がってみよう‥ そう思い直し、歩を進める事にした。彼と自分が渓を遡行するペースは、ほぼ一緒だった。距離は開きも縮まりもせず、一定を保っている。彼が意図的に、俺との距離を推し測っているようにも感じられる。付かず離れず、まるで彼に誘い込まれているかのようだ‥やがて渓谷の両岸はV字に切り立った崖となり、いよいよ源流域らしい景観に変わって来た。そしてついに、先を行く彼は小さな淵の岩の上で脚を止めた。どうするか迷ったが、まずは話しかけてみよう。俺は彼に近づいて行った。彼はこちらに背を向け、上流の一点をじっと見つめるように立ったままだ。チェストハイのウェーダーにカーキの渓流ベスト。黒いワーキングキャップを目深に被る彼の表情を、背後から伺い知ることは出来なかった‥が、それでも意を決して話しかけた。「こんにちは。釣れましたか?」返事は無い‥更に話す。「あの‥この先に行かれます?もし、ここで引き返されるのでしたら、自分は先まで行きますが‥」それでも返事は無かった。ふと、彼の足元に置かれたルアータックルとリールが目に入る。シマノ製バンタム100‥四十年以上も前の古いベイトリールだった。今の渓流釣りシーンでは、まずお目にかかる事が無い、遥か昔のオールドリール。そして彼はつぶやくように、こう言った。「片桐隆史さんですね‥ずっと待っていました」彼は岩を降りて沢に立つと、ゆっくりと振り返った‥振り向いた彼の顔‥その余りの衝撃に、俺は言葉を発する事が出来ず、その場で凍り付いた。つづく
先行者 ①前編 絵:mw_me 文:イワナ上流の大きな岩の上に人影が見えた。 先行者だ‥初めて来た川。朝靄の立ち込める渓谷で、前方に見えるシルエットが何者なのか‥渓流釣りをする者にとって、その答えは明らかだった。彼は間違いなくイワナ釣りの先行者だ。こと渓流釣りにおいて、先行者が居るという事は、その日の釣果を諦めるのと同義だ。狭い流れと数少ないポイントは、確実に先行者に探られ、釣られ、後を追う者は壊滅的に釣れなくなる。そして、先行者を追い抜いてはいけないという、渓流釣りならではの不文律、暗黙のルールがある。それゆえに、人影を確認して一気に落胆したのだが‥おかしな事に、ここまでの釣果はそれなりに上がっていた。入渓して1時間で5匹。ここぞというポイントでは、必ずイワナがルアーを追って来て、ヒットする。釣り人なら絶対見逃さない好ポイントのはずなのに。有り得ない事だった。経験したことの無い違和感。だが‥不思議に感じつつも、釣れているうちは、彼の跡を追って釣り上がってみよう‥ そう思い直し、歩を進める事にした。彼と自分が渓を遡行するペースは、ほぼ一緒だった。距離は開きも縮まりもせず、一定を保っている。彼が意図的に、俺との距離を推し測っているようにも感じられる。付かず離れず、まるで彼に誘い込まれているかのようだ‥やがて渓谷の両岸はV字に切り立った崖となり、いよいよ源流域らしい景観に変わって来た。そしてついに、先を行く彼は小さな淵の岩の上で脚を止めた。どうするか迷ったが、まずは話しかけてみよう。俺は彼に近づいて行った。彼はこちらに背を向け、上流の一点をじっと見つめるように立ったままだ。チェストハイのウェーダーにカーキの渓流ベスト。黒いワーキングキャップを目深に被る彼の表情を、背後から伺い知ることは出来なかった‥が、それでも意を決して話しかけた。「こんにちは。釣れましたか?」返事は無い‥更に話す。「あの‥この先に行かれます?もし、ここで引き返されるのでしたら、自分は先まで行きますが‥」それでも返事は無かった。ふと、彼の足元に置かれたルアータックルとリールが目に入る。シマノ製バンタム100‥四十年以上も前の古いベイトリールだった。今の渓流釣りシーンでは、まずお目にかかる事が無い、遥か昔のオールドリール。そして彼はつぶやくように、こう言った。「片桐隆史さんですね‥ずっと待っていました」彼は岩を降りて沢に立つと、ゆっくりと振り返った‥振り向いた彼の顔‥その余りの衝撃に、俺は言葉を発する事が出来ず、その場で凍り付いた。つづく
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イワナ
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05/15
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ミニ企画