温泉岩魚 ③後編画:mw_me 文:イワナ湯船に浸かったまま、どのくらい寝ていただろうか。背後で掛け湯の音がして、目が冷めた。少しのぼせたせいか軽い目眩を感じつつ、風呂に入って来た新客の方を見てみる。そこに居たのは、年の頃30くらいの綺麗な女性だった。長いであろう黒髪を束ね、身体にタオルを巻いている。彼女は「ごめんなさい。起こしてしまいました?」と言いながらタオルを平然と外し、隣の浴槽‥湧水を引いた水風呂に入って行く。自分が利用する限り、この露天風呂に若い女性が入って来たのは初めてだった。一応、混浴を謳ってはいるが、今まで利用客は男か婆様しか見た事がない。混乱する頭で「あの‥俺、向こう向いてますから!」と湯船の中で背を向けるのが精一杯だった。それっきり、気まずい沈黙が続く‥最初に話しを切り出したのは彼女の方だった。「今日は、イワナ釣れましたか?」なぜ、イワナ釣りと分かるのだろう?不審に思いつつ答えた。「あ、ハイ‥いえ、一匹も釣れてません。渇水で随分と水が少ないみたいで。」「遠くから、いらしたのでしょう?それでしたら‥3キロほど上流に明神滝と呼ばれる滝の淵があります。ここからは遠くて、釣り人もあまり訪れませんが、あそこなら多分‥」「実はそこまで行って来たんです‥でも‥結局は一匹も釣れませんでした。」なぜか、あの大岩魚と淵のイワナたちの事は人に話さない方が良い気がした。それからまた沈黙‥彼女はずっと冷水風呂に浸かったままだった。ふと、心配になり「水風呂は冷たいでしょう?どうぞこっちに入ってください。俺は見ませんから」と提案した。「いいえ、大丈夫。熱い湯は苦手なもので‥湧水がちょうど気持ちいい。」おかしな人だと思った‥ そして、今度はこっちが湯あたりで、目が回って来た‥限界だ。「すみません、ちょっと上がって涼みます。どうぞ、遠慮せず湯船に浸かってください」そう言うと、オレは背を向けたまま湯船を上がり、板敷の上に胡座をかいて座った。背後で彼女が水風呂から上がる音が聞こえる。温泉の湯船に移るのだろう‥ところが、彼女は湯船に入らず、濡れた裸足の足音がヒタヒタとこちらに近づいて来た。そして、彼女は俺の背後に座った。続いて身体を寄せて来た。背中に、冷たく吸い付くような肌の感触‥あまりの事にパニックに陥ったが、なぜか懐かしい感じがした。記憶にある感触と冷たさ。これは、アレだ‥アレ‥。湯あたりで上がっていた心拍数は、さらに急上昇し、景色が回り出した。それを察したのか、彼女はオレの身体をそっと横にして、柔らかい膝の上に頭を載せてくれた。薄れていく意識の中で、彼女はオレの顔に唇を寄せ‥確かにこう囁いた。「今日は助けてくれて、ありがとう」気が付くと、オレは全裸で仰向けに寝ていた。身体には彼女が巻いていたタオルが、掛けられている。彼女の姿は無く、辺りは暗くなりかけて弱い雨が降っていた。慌てて着替え、ヘッドランプを点けてすぐ上の林道に上ろうとした時‥背後の水量が増え始めた川で「バシャッ」と大きな魚が跳ねる音がした。振り向いて正体を確認する余裕も無く、オレは林道を急ぎ足で車へ向かった。午後8時過ぎ。帰りのハンドルを握る山道の中で、車のラジオを点けた。 ちょうど流れていた、ニュースの天気予報が報じていた。「本日、気象庁は梅雨入り宣言を発表しました‥梅雨前線が北上し、北関東地方では数日、まとまった雨が降る見込みです。」ふと、水量豊富な夏の渓谷を群れで泳ぐイワナたち、そして深い淵の底に潜む大岩魚の姿が脳裏に浮かんだ。あれから10年‥今では結婚して釣りを止め、小学生の子供もいる。でも、イワナと温泉の出来事は奥さんにも、誰にも話したことが無い。子供がもう少し育って、手が掛からなくなったら‥趣味の釣りを再開して、いつか、あの淵へ行こうと思っている。もちろん、奥さんには内緒で。おわり
温泉岩魚 ③後編画:mw_me 文:イワナ湯船に浸かったまま、どのくらい寝ていただろうか。背後で掛け湯の音がして、目が冷めた。少しのぼせたせいか軽い目眩を感じつつ、風呂に入って来た新客の方を見てみる。そこに居たのは、年の頃30くらいの綺麗な女性だった。長いであろう黒髪を束ね、身体にタオルを巻いている。彼女は「ごめんなさい。起こしてしまいました?」と言いながらタオルを平然と外し、隣の浴槽‥湧水を引いた水風呂に入って行く。自分が利用する限り、この露天風呂に若い女性が入って来たのは初めてだった。一応、混浴を謳ってはいるが、今まで利用客は男か婆様しか見た事がない。混乱する頭で「あの‥俺、向こう向いてますから!」と湯船の中で背を向けるのが精一杯だった。それっきり、気まずい沈黙が続く‥最初に話しを切り出したのは彼女の方だった。「今日は、イワナ釣れましたか?」なぜ、イワナ釣りと分かるのだろう?不審に思いつつ答えた。「あ、ハイ‥いえ、一匹も釣れてません。渇水で随分と水が少ないみたいで。」「遠くから、いらしたのでしょう?それでしたら‥3キロほど上流に明神滝と呼ばれる滝の淵があります。ここからは遠くて、釣り人もあまり訪れませんが、あそこなら多分‥」「実はそこまで行って来たんです‥でも‥結局は一匹も釣れませんでした。」なぜか、あの大岩魚と淵のイワナたちの事は人に話さない方が良い気がした。それからまた沈黙‥彼女はずっと冷水風呂に浸かったままだった。ふと、心配になり「水風呂は冷たいでしょう?どうぞこっちに入ってください。俺は見ませんから」と提案した。「いいえ、大丈夫。熱い湯は苦手なもので‥湧水がちょうど気持ちいい。」おかしな人だと思った‥ そして、今度はこっちが湯あたりで、目が回って来た‥限界だ。「すみません、ちょっと上がって涼みます。どうぞ、遠慮せず湯船に浸かってください」そう言うと、オレは背を向けたまま湯船を上がり、板敷の上に胡座をかいて座った。背後で彼女が水風呂から上がる音が聞こえる。温泉の湯船に移るのだろう‥ところが、彼女は湯船に入らず、濡れた裸足の足音がヒタヒタとこちらに近づいて来た。そして、彼女は俺の背後に座った。続いて身体を寄せて来た。背中に、冷たく吸い付くような肌の感触‥あまりの事にパニックに陥ったが、なぜか懐かしい感じがした。記憶にある感触と冷たさ。これは、アレだ‥アレ‥。湯あたりで上がっていた心拍数は、さらに急上昇し、景色が回り出した。それを察したのか、彼女はオレの身体をそっと横にして、柔らかい膝の上に頭を載せてくれた。薄れていく意識の中で、彼女はオレの顔に唇を寄せ‥確かにこう囁いた。「今日は助けてくれて、ありがとう」気が付くと、オレは全裸で仰向けに寝ていた。身体には彼女が巻いていたタオルが、掛けられている。彼女の姿は無く、辺りは暗くなりかけて弱い雨が降っていた。慌てて着替え、ヘッドランプを点けてすぐ上の林道に上ろうとした時‥背後の水量が増え始めた川で「バシャッ」と大きな魚が跳ねる音がした。振り向いて正体を確認する余裕も無く、オレは林道を急ぎ足で車へ向かった。午後8時過ぎ。帰りのハンドルを握る山道の中で、車のラジオを点けた。 ちょうど流れていた、ニュースの天気予報が報じていた。「本日、気象庁は梅雨入り宣言を発表しました‥梅雨前線が北上し、北関東地方では数日、まとまった雨が降る見込みです。」ふと、水量豊富な夏の渓谷を群れで泳ぐイワナたち、そして深い淵の底に潜む大岩魚の姿が脳裏に浮かんだ。あれから10年‥今では結婚して釣りを止め、小学生の子供もいる。でも、イワナと温泉の出来事は奥さんにも、誰にも話したことが無い。子供がもう少し育って、手が掛からなくなったら‥趣味の釣りを再開して、いつか、あの淵へ行こうと思っている。もちろん、奥さんには内緒で。おわり
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